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アルマトイの歴史 [アルマトイ]

アルマトイ郊外の山コクトベ(英語版)には、紀元前10世紀から紀元前9世紀のものと思われる青銅器時代の住居跡が存在する[7]。アルマトイから東50kmに位置する[11]イッシクからは、紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろと推定されるサカ族の遺跡が発掘され、[7]独自の文字が刻まれた銀製のカップが出土した[11]。イッシクのほか、アルマトイ近郊には発掘調査が行われていないサカの遺跡が多く存在する[12]。
中世にはシルクロードの天山北路のオアシスとして、交易が行われていた。アルマトイ近郊では10世紀から13世紀のものと思われる遺跡からは、タンドリ(窯)、焼きレンガ、貨幣が発掘された[7]。出土した貨幣の表面には「アルマトゥ」の名前が刻まれていた。13世紀のモンゴル帝国の中央アジア遠征の後、アルマトイの名前は多くの人から忘れ去られた[8]。
1730年(1729年)にはアブル=ハイル・ハンが率いるカザフ族の連合軍が、アルマトイ北西のアヌラカイ山で抗争を繰り返していたジュンガルを撃破する[13]。
1854年、シベリア・コサックが天山山脈のふもとに要塞を建設し、ザイリースキー(ザイリスコエ、Заилийский)と呼んだ。やがて、要塞はヴェールノエの名前で呼ばれるようになった[14]。ヴェールノエはビシュケク・タシュケント方面への遠征の拠点とされ[15]、1859年に初めて地図上に名前が記された[7]。
1867年に要塞はヴェールヌイ(Верный)市と改められてセミレチエ州の州都に定められる。ステップ上に位置する立地、当時の不安定な中央アジア情勢のため、ロシア帝国の統治下で秩序が保たれていたヴェールヌイには、多くの民族が移住した[16]。ヴェールヌイに移住した人間はボリショイ・アルマトゥ川沿いに、出身地域ごとに集落を形成した[7]。1880年代のアルマトイは、60年代にロシア人移民が居住する要塞周辺の旧地区、70年代以降に建設された新規の移民の居住地である新ヴェールヌイ区、カザフ族などの非ロシア人が居住する郊外の地区の3つに分かれていた[16]。1887年と1910年(1911年)の大地震でヴェールヌイは壊滅するが、人々は町を再建した。2度の大地震の後に、碁盤目状の市街地が整備され始める。
1918年3月にアルマトイにソビエト政権が樹立する。 1921年、町は特産品のリンゴにちなんだ名前のアルマ・アタ(リンゴの父)に改称される[9]。 1928年、政争に敗れたレフ・トロツキーが追放され滞在した(翌年にはソビエト連邦から国外追放)。 1929年、カザフ自治ソビエト社会主義共和国の首都がクズロルダからこの地に移される。1930年、トルキスタン・シベリア鉄道とトルキスタン・シベリア道路、さらにアルマ・アタ空港(現在のアルマトイ国際空港)が完成し、カザフスタンの中心地に発展していく。木造の平屋が多く経っていた町に、鉄筋コンクリートの建物が現れ始める[4]。ソビエト政権時代、町の通りにはレーニンなどの社会主義を象徴する名前やジャンブル、アバイなどのカザフ族の偉人の名前が付けられた[7]。都市の中心部には政府関係の建物だけでなく、オペラ劇場やコンサートホールなどの文化施設が建設された。
第二次世界大戦中、アルマ・アタには戦火を逃れるために工場や病院、大学、映画撮影所などがヨーロッパ・ロシアから続々と疎開してきた。ソ連の映画撮影所モスフィルムとレンフィルムが移転したアルマ・アタに中央合同劇映画製作所が発足、当時のソ連製映画の約8割がアルマ・アタで制作された[17]。アルマ・アタで映画技法を学んだ人物の中から、中央アジアの映画界で活躍する人材が多く現れた[17]。戦後には日本兵捕虜の収容所が設置され、科学アカデミーや発電所の建設に使役された[5]。市内には日本兵捕虜が葬られた墓地が3か所存在する[5]。
1960年から1986年までのディンムハメッド・コナエフがカザフスタン共産党中央委員会第一書記を務めていた時代、町の景観が整備される[6]。1978年にはプライマリ・ヘルス・ケアに関する会議が開催され、アルマ・アタ宣言が採択された。1986年、ミハイル・ゴルバチョフはコナエフをカザフ党第一書記(政治局員)から解任し、後任にロシア人のゲンナジー・コルビンを選出した。第一書記は共和国の基幹民族出身者から選出する慣行に反する上、カザフスタンと全く繋がりのないコルビンの起用はカザフスタンの学生たちの反発を招いた[18]。このため、1986年12月17日朝から12月18日夜にかけて、大規模なカザフ人暴動が発生した(アルマアタ事件)。
1991年より、アルマ・アタは旧ソビエト連邦から独立したカザフスタン共和国の首都に定められ、1993年にアルマトイに名称を統一した。1997年、ヌルスルタン・ナザルバエフは首都をアクモラ(現在のアスタナ)に移すことを決定し、翌1998年1月に遷都が行われた。

参照元:Wikipedia「アルマトイ

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アルマトイの交通機関 [アルマトイ]

アルマトイ郊外では、新車を購入する経済的な余裕が無い人間のための中古車を扱うバザールが開かれている[38]。
自動車の排気ガスによる大気汚染は、アルマトイを悩ませている[7]。また、渋滞も頻発しており、駐車場が少ないために路上駐車が横行していること、低速度で走行中に故障が起きやすい旧型車が大排気量の新車と並走していることなどが発生の原因として挙げられる[39]。2005年には交通事故の増加を防ぐために市当局が右ハンドル車の新規登録を停止することを発表したが、右ハンドル車の所有者やディーラーの反対にあって発表を撤回した[40]。

◯交通機関
・アルマトイ国際空港 - 市内北東の15kmに位置するカザフスタン最大の空港。アルマトイは中央アジア各地とロシア・ヨーロッパを結ぶ航空上の拠点として重要視されている[20]。
・アルマトイⅠ駅 - 町の北にある駅。
・アルマトイⅡ駅 - 市の中心部にある駅。多くの列車の発着地となっている[41]。モスクワ行きは隔日、中国ウルムチ行きは週2便のシルクロード号が発着する。
・アルマトイ地下鉄 - 2011年に開通した中央アジアでは2番目の地下鉄。
・サイランバスターミナル - 市の西にある長距離バスターミナル。現地ではノーヴィー・アフトヴァグザールの名前で呼ばれている[41]。ビシュケク、タラズ、ウルムチ、グルジャ行きのバスが運行されている。
・マルシュルート・タクシー - 定員10人前後の小型バス。車体は主にロシア車と中国車が使用されている[42]。

参照元:Wikipedia「アルマトイ
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アルマトイの観光地 [アルマトイ]

市外の中心部にはオフィス、銀行、ホテル、ショッピングモール、カフェ、映画館といった新しい建築物が建つ。アルマトイには歴史的な建造物の遺跡は存在しないが、ヨーロッパ風の街角が多く残る[28]。また、ソ連時代の伝統を引き継いで、オペラ、バレエ、コンサートなどの文化的な催し物が劇場で上演されている[36]。
ハイアットリージェンシー系列のラハット・パラス、インターコンチネンタルなどのホテルが営業している。

◯主な観光地
・28人のパンフィロフ戦士公園 - 第二次世界大戦の対ドイツ戦でモスクワ防衛に参加して戦死したパンフィロフ将軍と彼が率いた兵士を記念して造られた公園。アルマトイでの結婚式の当日、花嫁と花婿は公園の戦勝記念碑に花を捧げ、記念撮影を行うことが多い[37]。中央には1904年に完成したゼンコフ正教教会がそびえる。
・国家中央博物館 - 約90,000点の展示物を所蔵する[28]。イッシク古墳から出土した「黄金人間」のレプリカ、石人などが展示されている。
・国立カステエフ記念美術館 - 主に現代のカザフ人芸術家の作品を展示している。
・カザフ民族楽器博物館
・アルマトイ動物園
・中央バザール

参照元:Wikipedia「アルマトイ
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